大会概要 ─ 偉大なローカルトーナメント

真珠湾を一望する絶景の地に広がるパールカントリークラブは、戦後の日本を代表する技術者であり経営者である本田宗一郎が、こよなく愛したゴルフ場である。

真珠湾を一望する絶景の地に広がるパールカントリークラブ

本田技研工業の最高顧問の地位にあった本田宗一郎が設立した本田開発興業が、縁あってこのゴルフ場を経営するにあたり、何よりも大切にした理念は“地元への貢献”であった。本田からその社長に指名された尾形次雄は、「地域密着でやれ。地元の人たちに喜ばれるコースにしろ。儲けは従業員が食える程度にそこそこでいい」という本田から出された最初の指示を、昨日のことのように覚えている。

1976年、尾形は「地元の人に喜ばれるコース」という本田の言葉に従い、パールカントリークラブを、パブリックコースとして開場すると同時に、ゴルフに理解のある地元の有識者10人ほどに集まってもらい、コミッティを組織してクラブの今後について話し合ってもらうことにした。

そこで出た提案は3つあった。
「ゴルフ場主催のトーナメントを開催する」
「ハワイのプロゴルファーを育て日本のトーナメントに出場させる」
「パールカントリーを美しいコースに整備する」

パールカントリークラブ:3つの提案

本田が初めてパールカントリークラブを視察に訪れたとき、明媚な風光とは裏腹に、コースは芝もまばらで、あちこちに赤土がむき出しになっていた。本田は、まだ買収もしていないのにもかかわらず、つい「あそこを直せ。ここもこうしろ」と改造の指示を矢継ぎ早に出し、尾形に「まだ買ったわけではありません」とたしなめられたという逸話が残っている。未完成なゴルフ場を目の当たりにして、本田のモノ造り一筋に生きてきた血が騒いだに違いない。

ハワイにはハワイアンオープンという立派なトーナメントがすでにあったが、PGAツアーのイベントであるため、その競技に参加することは難しく、ハワイのゴルファーにとって、ハワイアンオープンは観るものであっても、参加するものではなかった。「ハワイのプロゴルファーを日本のトーナメントに参加させたい」という提案も出ていたことでも分かるように、コミッティは地元ゴルファーの世界への飛翔を願っていたのだ。ゆくゆくは、このローカルトーナメントで腕を磨いたハワイのゴルファーが世界各地で活躍してほしいとの思いが込められた。

本田宗一郎

本田宗一郎

そのころ、ハワイ出身の力士・高見山の大相撲での活躍が、ハワイの人々を一喜一憂させていたのと同様に、ゴルフの世界でも皆で応援できる選手の出現が待たれていたのだ。

尾形は、当時、アマチュアながらハワイで最強のゴルファーと目されていたアレン・ヤマモトを日本のトーナメントへ送り込み、そして同時にパールカントリークラブでのトーナメント開催への準備もヤマモトに依頼した。

ヤマモトは、短期間ではあったが、日本のプロ野球チームに在籍していたことがあり、日本のスポーツ界に人脈を持っていた。その伝を頼って、鷹巣南雄、河野高明、河野光隆、関水利晃などのプロゴルファーたちにも参加を呼びかけ、1979年2月、第1回パールオープンが開催の運びとなった。

アレン・ヤマモト

アレン・ヤマモト

記念すべき第1回の優勝者は、鷹巣南雄だったが、ローエストアマに、後に日本ツアーの賞金王にまで上り詰めるデビット・イシイが入った。その直後にプロに転向したイシイは、翌年の大会でプロ初優勝を果たした。

そしてデビッドは、パールカントリークラブの所属として、日本のトーナメントへの参加というハワイのゴルフファンの期待を担うことになる。当時の日本のプロゴルフ界は、鎖国と言っても過言ではないほど閉鎖的で、外国人が日本のトーナメントに出場することは、並々ならぬ苦労があり、そこには尾形の献身的なサポートがあったことは、見逃せないだろう。

デビット・イシイ

デビット・イシイ

第一回大会優勝 鷹巣南雄

第一回大会優勝 鷹巣南雄

こうして、パールカントリークラブは、日本とハワイのゴルファーの架け橋となり、そしてパールオープンは、“ラッキートーナメント”と呼ばれる歴史を刻み続けている。ミシェル・ウィー、横峯さくらなど女性ゴルファーに門戸を広げ、地元のタッド・フジカワの優勝でも話題を集めたが、ウィーは2009年にツアー初優勝を飾り、横峯もまた賞金女王に輝いた。さらにアマチュア時代から参加し、プロになって初の賞金をパールオープンで獲得した石川遼と31回初参加の池田勇太が2009年の日本ツアー賞金王を争い“ラッキートーナメント”の真価を実証している。

ハワイの人々が「私たちのマスターズ」と胸を張るのは、その歴史ばかりではなく、本田の理念であった「地元密着」が結実したトーナメントだからであり、喜々として大会運営に当たる地元ボランティアの笑顔は、その誇りの表れにほかならない。

ミシェル・ウィー(24回)

ミシェル・ウィー(24回)

池田勇太(31回)

池田勇太(31回)

横峯さくら(25回)

横峯さくら(25回)

石川遼(30回)

石川遼(30回)

ダニー・カレキニ&本田宗一郎

ダニー・カレキニ&本田宗一郎

ダニー・カレキニ&本田宗一郎

ダニー・カレキニ&本田宗一郎

本田は、本戦もさることながら、日本とハワイ、そしてプロゴルファーたちとの交流の場として、試合に先立つプロアマチャリティトーナメントも大切にし、本田自身も大いにそれを楽しんだ。恒例のパールオープン前夜祭の席で、ハワイを代表するシンガーであるダニー・カレキニが炭坑節を余興に演奏すると、本田は、「月が〜出た出た〜月が出た」と身振り手振りを交えて歌い出し、その場を盛り上げたという。

日本に帰った本田は、ハワイアンソングの真珠貝の歌のカセットテープを手に入れ、車で移動するときに聴きながら練習し、翌年のパーティでは、完璧な英語で、その歌を披露し拍手喝采を浴びた。本田の、人を喜ばせたいというサービス精神を偲ばせるエピソードだ。

毎年、老若男女を問わず、日本・ハワイをはじめ各国から選手が集い、同じティグランドから同じ条件でプレーするユニークなこの大会は、偉大なるローカルトーナメントである。

ゴルフジャーナリスト 久保田千春

偉大なるローカルトーナメント、ハワイパールオープン